3次元別館。

主に観劇の感想です。2.5舞台が多めでその他のミュージカルやストレートプレイも。

【観劇記録】6/15 ミュージカル『エリザベート』

 

  • 帝国劇場2019年版の感想です

10代の頃に宝塚版を観劇して以来、ずっと魅せられ続けている作品です。帝劇版は初演と2009年版、2015年版を観ていて、今回で4度目の観劇。この日のキャストは写真の方々でした。

 

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以下、だいたいキャストごとに。

愛希さんの宝塚退団時のエリザはチケットが取れずライブビューイングだったので、やっとリアルで拝見できて感無量。愛希シシィは、逃れることの叶わない場所で悩み苦しみながら、懸命に生きようとした等身大の女性でした。1幕ラスト、真っ白なドレスでフランツの前に現れる場面では、いつもなら美しさと堂々としたたたずまいにため息がこぼれてしまいそうになるんだけど、今回は辛くなってしまった。もちろん美しくはあるんだけれど、その表情は苦渋や諦めを抱えながら必死で矜持を保っているようで、あの登場時の天真爛漫な少女だったシシィはもうどこにもいないんだと思うと悲しかったです。昨年の宝塚版では、というより、今まで見たことのあるどのバージョンでもそんな風に感じたことはなかったので、びっくりした。2幕冒頭の「私が踊るとき」ではトート相手に勝ち誇った表情を見せるんだけれど、続く精神病院慰問では「耐えられず狂いそうになる」と苦しい胸の内を吐露する。そして夫に裏切られて旅に出る頃には笑顔は完全に失われて、ハイネの碑の傍らでやっと安らいだ表情を見せたりと、場面が進むごとに辛さが募るばかり。「キッチュ」で「シシィはものすごいエゴイスト」って歌われてたり、精神病院で自らを皇妃エリザベートだと思い込んでいるヴィンディッシュに対して「跪くのはあなたよ」と窘めるような(観客からするとぎょっとする)台詞があったりするのも、そんな風にならなければ生きていけなかったんだろう、って考えるとすんなりと腑に落ちた。歌は総じて安定していて、危うさはなかったかと。花總さん演じるシシィの高貴さ、気高さが大好きなんですが、愛希さんもまったく異なる魅力のシシィを見せてくれて、これからのご活躍が更に楽しみになりました。

ついに来た!感のあった古川トートは、ポスタービジュアルからもそうなのはわかってたけど実際に舞台に降臨した時の美しさと言ったら……語彙力カモンって感じですよ。天井から降り立ってご登場の時に思ったのは「何て傲慢尊大ナルシストなトート閣下……!」でした。人間なんて下等生物と見下していて、シシィに振られた時も「は? 人間ごときがこの俺を振った?!」と、起こったことが信じられないといったリアクション。で、中盤まではそんな風だったんですが、ルドルフの辺りから変わってきた。「闇が広がる」の後、皇帝への幻想を抱くルドルフをじっと見つめる目は無表情。全てに絶望して死を選ぼうとするルドルフに「死にたいのか」と囁くも勝ち誇ったような色は全くなく、ただそこにある「死」そのもののようでした。それでいて、息子の死を嘆き悲しむシシィの前に現れる時はまた傲慢な顔に戻り、フランツの悪夢に登場した時はそれともまた異なる、圧倒的な力で君臨する黄泉の帝王に。そして、シシィが死を受け入れて旅立つ時には嬉しそうな風ではなく、穏やかな安らぎを与える存在、として静謐ささえ感じる佇まい。場面ごとのこの印象の違いは何なんだろうと考えて、古川トートは「対峙した者の心の在り方によって姿を変える(=その人がイメージする「死」の姿)」トートなのかな、と。宝塚版でも帝劇版でも、トートは特に演じる人によって解釈の異なる役で*1「千年くらい帝王やっていそう」「帝王に就任したばっかり」「割と最近まで人間やってた」「イマジナリーフレンド的」「ドライアイスのような冷たさ」「熱さを感じるが、どこか非現実的でもある」などなど様々なんですが、自分の知っている中でこういうトートは意外と初めてで、こちらも良い意味で意表を突かれました。

成河ルキーニは生理的な不気味さがあった。台詞や態度がおちゃらけていてもなんかこの人怖い、というか、既に人間をやめて人外のものになりつつある(実際「とっくに死んでる」んだけど)ような雰囲気。重要な単語ですっと声の調子を落としたり、あるいは平坦に呟いてみたりと、観客を翻弄して楽しんでいるようでした。2015年の山崎ルキーニにも種類の違う怖さ(裏社会に身を置く人が醸し出すようなそれ)があったので、「なんか怖い」というのは最近の帝劇版のルキーニの傾向なのかな?*2

田代フランツは、終始皇妃への愛にあふれておりました。プロポーズの時から始まって、すれ違いの続く日々の中でも、一夜の過ちを犯してしまったその後も、変わらず妻を愛し続けているのが伝わってきて切なかった。優しく響く歌声が耳に心地よいから更にね……。しかし今回に限ったことではないんだけれど、マダム・ヴォルフの館は王侯貴族も利用する「紳士の社交場」の割に従業員のお姉さんたちの格好がかなりフェティッシュというかそういう意味の女王様っぽいので、あの場所を推薦した重臣のおじ様たち、そしてフランツも結構特殊な嗜好の持ち主なのでは……?

出てきたときにやけにピリピリしてるように感じた木村ルドルフでしたが、闇広の「不安で壊れそう」のくだりで納得。不安とプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、精一杯虚勢を張って、手探りで進もうとしている青年でした。「死」に狙われつけこまれたというより、自然と呼び寄せてしまった感あり。彼もまた生きることに必死で、そういうところが母親に似ている。まさに「合わせ鏡」というフレーズがぴったり来る親子でした。

シシィからしたら悪者のゾフィも、(子どもへの体罰云々はよろしくないとは言え)自分の勤めに忠実であろうとしただけで、対話を試みることすら無理なくらい立場は異なっていたし、そもそもの価値観が全く合わなかったんだよなあ……とやるせなくなる。脚本自体はほぼ変わらない作品でも、長い事観ていると自分のとらえ方が変化してくる部分もあるんだよね。最初の頃は舞台全体の美しさやトートの妖しさにばかり目が行っていたけれど*3、段々とシシィの苦しさも身に染みるようになってきて、「夜のボート」での夫婦の姿に涙が出るようになったのは30代になってからだし。

*1:宝塚では髪の色や質感まで違ってて、ウェーブがかった銀髪だけでなく黒髪や金髪、ストレートロングといろいろ。

*2:自分が観た回のみの印象ですが

*3:今ももちろんそこに目は行く